浅草と言えば、浅草寺と三社さま(浅草神社)ということに異議を称える者はいないでしょう。
今でこそ浅草寺と浅草神社は仏教と神道という宗教様式の違う別組織になっていますが、明治初年の神道分離令が出されるまで、三社権現として、浅草寺と一体不可分の関係にあったのです。
「権現」とはよく聞く名ではありますが、ではどういう意味?と聞かれて正しく答えられる人は意外に少ないようです。
奈良時代から神と仏を一体としてみなす神仏習合はさかんに行なわれてきましたが、さらに平安時代に入ると思想的根拠が付け加わることとなります。
鎌倉時代にかけてさらに拍車がかかります。
その思想的背景になるのが本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説という考え方です。
神道の神様は、仏教の仏が仮の姿をもって世に現れたと考えたのです。
そのようにして実に明快に習合していたのです。(その反対の考え方つまり、神が仮の姿として仏の姿で現れたとも考えられるようになります)
ともあれ日本での仏教の興隆は、江戸期の檀家制度もさることながらこの垂迹思想、権現思想の考えによるところが大きかったと思われます。
三人の神様を祀る三社権現もその思想に裏づけされ明治の神仏分離令のそのときまで渾然一体となって浅草の町とともに栄えてきたわけです。
専堂坊62世の記述を引用してみます。
慶応三年徳川幕府の大政奉還となり、翌慶応四年(明治元年)三月二十八日神仏分離の令が下され、太政官布告により、神社と神職は神祇官の直属となり、社僧、別当は復飾(還俗)を命じられ、神仏混淆が禁じられたのである。
これまで三社大権現に祀られた土師中知、檜前浜成、竹成の子孫は三譜代と称して、観音堂に使えていたが、神仏分離で誰か一人は復飾して三社の祭典に専従しなければならなくなった。三家とも千余年の間観音に仕えてきたのに、いまさら復飾させられるのは迷惑だったので、檜前斎頭の倅相模を復飾させることを願い出たが認められず、斎頭も常音も復飾を拒否したので、やむなく土師専堂が復飾に応じて、三社の神官となり土師内膳と称した。
寺側に残った斎頭と常音は、従来の三譜代が二譜代となり、奉公に支障があると申し立て、浅井玄東という者を推して専堂坊の後任とし、再び三譜代とした。
ところが玄東は土師氏の身寄りだということで、神仏混淆のおそれあり、このこと相成らぬと申し渡しを受けたので、土師内膳は、玄東が専堂家を相続し、自分は同家とはまったく無関係になったのだから、玄東を新規に取り立ててくれるよう嘆願書を呈出し、斎頭、常音からも同様願い出て、やっと許可があり、浅井玄東は、中島清伯と改名して三譜代に加えられることとなった。
そこで、中島清伯は明治二年六月十五日専堂家を相続、同年同月二十三日得度し、忠伝と称した。明治二年八月十四日許可を得て、中島清伯を改め、旧姓浅井玄東に復した。
玄東は明治二十四年六月三十日没、墓石には専堂坊六十世と刻す。
では三社様の歴史を三社様の栞より見てみたいと思います。
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